第5課 イエス・キリスト |
|||
|
・イエス・キリスト 聖書が示すところの罪からの救い主は、イエス・キリストです。イエスは名で「主は救い」という意味です。キリストは称号で「油注がれた者」つまり「救い主」を意味します。 旧約の預言者たちは、徹頭徹尾にキリストを預言しています。使徒たちもまた、キリストとその救いの業を証言しています。聖書は人間の救いの書ですが、その中心はイエス・キリストであるということです。
・神のひとり子 聖書によれば、神は三位一体の神で、1つの神という存在の中に3つの人格を持つ方とされています。3つの人格とは、父の神、子の神、聖霊の神で、それぞれが同じ神の永遠性と尊厳を持ちます。イエス・キリストは「子の神」です。しかも「ひとり子の神」とされています。 少し難しい話であったかと思いますが、神が三位一体である事は、キリストの救いの完全さと関係があるので、あえて紹介しました。このことは後で触れることにします。 イエス・キリストがもう一人の神であるということについて、使徒ヨハネは次のように紹介します。1:1「 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」。 「ことば」とはキリストのことですが、明瞭に「神であった」と啓示されています。 イエスが神の神であることは、いくつかの点で重要な意味を持ちます。第1に、イエスのみが完全に父の神を知り、ご自分の中に体現している方であるということです。第2に、父と等しい尊厳を持ち、父の神に対して最高の贖いの代価となることです。第3に、審判者である父神に対して、最高の弁護者であるということです。
・人となった神 またキリストは、神であるだけではなく、人となられた神です。このことはクリスマスの物語の中で美しく描かれていますし、またヨハネ福音書1:14「 ことば(キリスト)は人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。それは私たち人間と同じ性質を持って地上で生活され、同じ苦しみの体験をしたと言うことです。そのようにして、私たち人間の側の一人となられたのです。 キリストが人となったことで、次のような恵みを私たちは受けました。一つは、キリストを通して、父の輝きの前で裁かれることなく、神の一切を知ることとなったと言うことです。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(ヨハネ福音書1:18)とあるとおりです。
・贖い主キリスト もう1つは、私たち人間の側にたち、代表として罪の代価になられたということです。罪は、宗教的な神に対する負債です。それはあまりに大きく、人間の努力では、払いきれないのです。そこで父の神は、一人子のキリストを与えて、わざわざ罪の代価とされたのです。ここにも「ご自分の一人子さえ惜しまずに与える愛の神」が明らかにされています。同時に、キリストご自身も、進んで神のご計画を実現するために、地上にこられ、実に十字架の死にまでも従われたのです。 聖書全巻のクライマックスは、この十字架の死です。私たちはキリストの極限の苦しみを伴った贖いによって、罪から救われるのです。預言者が預言し、福音書記者が心を痛めながら描いたのは、まさにこの神の子の贖いの死なのです。
・キリストの復活と昇天 福音書では、キリストの死と共に、3日後の復活を証言しています。マリヤと出会い、ペテロやヨハネと言った弟子たち、疑い深いトマスという弟子にも現れています。その際に、手の傷と脇腹の傷を示し、確かにイエスご自身であることを証ししています。福音書の時代には、500人の弟子たちが、復活したキリストを見たと記されています。 キリストは復活した後、約40日間に渡って弟子たちに現れました。その後、彼らの見ている前で、天に昇りました。それは父の神の前で、信じる者たちの弁護者となるためです。キリストの尊い代価ゆえに、私たち罪人も神の子どもとして、愛されます。また神の生命である「永遠の生命」を心に注がれるのです。この生命ゆえに、私たちは肉体が滅んでも、滅びることなく、世の終わりに新しい肉体の復活に至ります。これがキリストを信じた者たちの希望です。この希望は、地上のどのような苦難も死の恐怖も奪い去ることはありません。 現代人もと罪ゆえの苦痛、死の恐怖/不安に、心がむしばまれています。ただキリストを通してのみ、その暗闇から救われるのです。
|
|