第4課  人間その2 罪

 

 

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

     

 

・罪

 人間は、神の似姿に創造されましたが、聖書はもう1つの側面を示します。それは罪です。聖書は、天地創造の後に、すぐに人間の罪の問題を取り上げています。それが、人間の苦しみと悲惨の根本原因だからです。

 

・罪の起源と本質

  創世記3章には、次のような堕落物語があります。「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 

  「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」

  童話風のようですが、この簡単な物語の中で、罪の本質を、的確に描かれています。第1に、罪は「蛇(サタン)」によってもたらされたこと、第2に、「神のようになる」という傲慢が、罪の本質であること。第3に、人間が、神のことばから離れて、自分で見聞きし判断するときに、「善悪の区別ができなくなる」ということです。善悪はすべて思いこみになってしまうのです。

 

・罪の実態

 聖書では罪の起源とともに、その実態をくり返し描写します。アダムとエバは、カインとアベルという2人の子どもを生みました。この兄弟の内に、嫉妬心が入り、カインがアベルを殺害するという痛ましい事件が起こります。また「神のようになる」という傲慢は、バベルの塔、ノアの時代の暴虐と性的堕落といった事態を引き起こします。

 この罪の実態は、現代に至るまで綿々として続いています。最近の日本社会に起こる痛ましい事件の背後にあるのは、人間が根元的に持つ「罪」であることに気づく必要があります。まさしく原初から続いている「心の闇」の世界なのです。

 

・心の中の罪

 イエス御自身も福音書において、罪の実態を明瞭に指摘しています。「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

  使徒パウロもまた、罪の実態について語ります。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」

 

・罪の実態_苦しみと悲惨

 最近、19世紀のロシアの作家ドストエフスキーがよく注目されます。彼が取り上げている問題は、近代文明に潜む「傲慢」の問題です。神の存在を否定した結果、現代人はどのような姿になりつつあるかについて、実に、鋭くえぐり出しています。神から離れた人間は、自分の理性を過信し、ついには殺人鬼に変貌していく様子を色々な形で描いています。理性に従っているようで、神から離れた人間は罪の奴隷に成り下がっているのです。

  私は20才の時、キリストを信じましたが、それは人間の罪について、色々な側面で知るようになったからでした。1つは、自分の内にあるねたみの感情、1つは自分がやがて滅びる存在であることを知ったこと、1つは社会の土台は脆弱であることを知ったこと、1つには人間の力では真理に到達できないことを知ったことなどです。

 罪とは、人間が罪の汚れに満ちているという状態だけではなく、自分では、そこから抜け出す能力がないということでもあります。

 

・将来の裁き_最後の審判

  最後に、聖書は「罪の結果は死」あるいは「罪の結果、神の裁きにあう」と宣告しています。ノアの洪水の物語は、単に昔に起こった災害というだけではなく、現代に対する警告としてしるされているのです。また預言者と使徒も同様に、「最後の審判」について記しています。これらは人間に対して恐怖感を与えるためではなく、罪の結末がどれだけ深刻で、悲惨なものであるかに気づいて、神の救いに心を向けるためです。

 「神は愛です」と初めの課から語っていますが、神は私たちを罪の悲惨から救うために、聖書を与え、ひとり子の神イエス・キリストを地上に遣わしたのです。

  私の友人で、「地球最後の日」という古い本を通してキリストを信じた人が何人かいます。この本では、世の終わりに神の裁きがあることを、リアルに示されています。この人たちは本を読んで、そのままでは自分が裁かれるのは必至と感じて、キリストの元に救いを求めたのです。

 

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聖書箇所

→創世記3:1〜

「1さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」

 

 

 

→マルコ7::20~23

「20 また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。21 内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、23 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」

 

 

 

→ローマ1:22 

「22彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。・・・・29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」

 

→ローマ6:23

「23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」

 

 

断絶の絵

人間は罪の状態から抜け出す力がない

    

*図の説明

 人間はいかなる努力や悟りをもってしても、罪と裁きから抜け出ることができません。宗教の悟り、哲学的探求、科学技術の発展などでも同様です。罪から抜け出て、神の元に至るためには、永遠の価値、無限の努力が必要なのです。限りある人間には、不可能なことです。

 

 

→ヨハネ黙示録20:13~15

「海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」

 

 

 

 

エピソード 1

三浦綾子作「氷点」は、何回もテレビドラマ化された作品です。この小説のテーマは、人間の持つ根元的な罪、原罪です。陽の光のように伸びやかに育った陽子が、自分の出生を知ったときに、心は凍りつき生きる希望を失うのです。そして自殺に至るのです。陽子を巡る人間関係は表面のきれいさとは裏腹に、内面においてはどろどろの罪の世界でした。陽子が人生に絶望して自殺に向かったのは、単に自分の出生だけではなく、さらにその奥に潜む原罪を垣間見たからなのです。

 彼女の場合は、自殺未遂で終わることになり、「続氷点」に続きます。陽子だけではなく、どのような人でも、自らの原罪に気づくときに絶望に至ります。ただ神からの救いのみが、希望の陽となり、私たちの心を朗らかにするのです。

 

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