第12課  主の祈り

 

 

 

 

    

 

 

   

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       

 

 

            

・主の祈り

  最後に、「主の祈り」について学びたいと思います。主の祈りとはマタイによる福音書6:9~13において、イエス・キリスト御自身が弟子たちに教えた祈りです。この祈りに、私たちが祈るべきすべての要素が含まれています。私たちの教会でも礼拝や祈り会で共に唱えまし、個人でもそうです。

 

天にいます私たちの父よ

 「主の祈り」は、「天にいます私たちの父よ」という呼びかけで始まります。神は私たちの父親であり、私たちをいるも愛してくださる方です。この神に対する全面的な信頼が、私たちの祈りの基本姿勢です。またこのように祈ることによって、私たちは神の子どもの心を持つことになります。すべて御霊の働きです。

 「私たちの・・」と呼びかけるのも、この祈りの特徴です。私たちはただ孤立して地上に生きているのではなく、多くの信仰の兄弟姉妹と共に生きているのです。つまり教会と共に生きているということです。主の祈りは、この神の民の交わりをも、基本にしている祈りです。

 

御名が崇められますように・・・

 私たちがキリストを信じることで、私たちの生きる姿勢が180度転換しています。かつては自分を愛するだけの人間でしたが、今は神を愛することが赦されている新しい人とされています。そして私たちの生きる目的は、「神を愛し、神の栄光を現すこと」となりました。それがまた、私たちが良く生きる鍵となります。自己中心に生きる者はすべて人生が破綻に向かいます。しかし神中心に生きることで、神の良いご計画の中を歩むことになり、幸せを獲得できます。

 私たちの願いはまず、祈りの中で実践されるのです。「御名が崇められますように」との祈りがそれです。「御名」とは神の名のことですが、それは神が崇められるようにというのと同じ意味です。神は良い目的を持って天地創造をなし、無限の愛をもって保ってくださっています。聖書の神こそもが、真実な神です。ところが、私たちの周囲では八百万の神々、仏教の仏(ほとけ)など神以外のものが崇められています。偉人やタレントを崇める人もいます。あるいは自分が神であるような人も大勢です。それは神に対する冒涜で、神を悲しませる状態です。そこでまずは、神の子とされた者たちが、心より祈るのです。

 

・御国が来ますように、・・地でも行われますように

 「御国が来ますように」とは、神の平和と愛支配が完全に実現している神の国が、地上に到来することを求める祈りです。聖書でも、世の終わりと神の国の到来が預言されています。神は、確実に、それなす方ですが、私たちも神のご計画に沿って、御心と同じ祈りと願いを持つのです。神の御心が完全に実現するのは、後に到来する神の国のみです。地上の人間の世界は罪に染まっており、死の力が支配します。それがそのまま幸せの地になるということはありません。

 また「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」と祈ります。聖書では、地上において神の国が完全に実現することはないことを示していますが、同時に地上の罪の世界にも、先だって神の国の支配が及ぶことも約束されています。神の国が前触れのようにして、影響を及ぼすということです。それは神の子たちの交わりと福音宣教によって起こってくるのです。教会は、神の国の前触れそのものです。またキリスト者たちの生活と、それによって実現する平和もそうです。このようにして、私たちは地上においても、神の国の影響が少しでも実現するように、祈るのです。

 

・日ごとの糧

 「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

 「日ごとの糧」とは、私たち神の子たちが、地上の生活において必要とされる一切です。食物、飲み物、住まい、友人、助け手などすべてです。金銭も例外ではありません。神は、決して私たちの地上の生活を軽んじることはありません。地上の生涯においても、私たちが神の子として生き生きと喜びを持って生き、また良い証ができるように願っておられます。

 私たちは、「日ごとの糧を・・」と祈ることを通して、神が確実に与えてくださる方であることを改めて信じ、そのような恵みの神に対する信仰を深めるのです。

 

負いめをお赦しください

 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」

 「私たちの負い目」とは、罪のことです。私たちは神の子どもとされましたが、肉体を持つ限り、絶えず罪の力の影響を受けます。それで神に対しても隣人に対しても、多くの罪を犯してしまう弱さを持ちます。意識してなす罪もあれば、無意識の罪もあります。自分自身の肉体を汚すという罪もあります。行為として現れる罪もあれば、心の中に起こってくる汚れもあります。

  私たちが罪を犯したときに、私たちの心には神に対する「負い目」が起こります。罪は、神に対する宗教的道徳的借金にたとえられるのです。それは金銭によって支払われることなどなく、ただ神の無限の代価と赦しによってのみ、解消するのです。私たちが祈るときに神は、すべての罪を赦してくださり、「負い目」は解消されます。

  ただ「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」という告白と意志が必要とされます。神によって愛されたように、私たちも隣人に接することを、私たちの父の神は願っておられるのです。この点は、大切です。私たちの地上の生活における痛みは、「赦されていない、赦せない」という心の痛みです。人間の心は頑ななもので、この負い目の執着から離れがたいものです。しかし、この祈りを通して、神の前で、お取り扱いを受け、サッパリと解決することが大切です。

 

・試みに会わせないで

 「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」

 人間は元々、罪を犯してエデンから追放されました。その結果、地上は悪魔の力が、強く及ぶところとなってしまいました。悪魔はサタン、「暗闇の支配者」、「試みるもの」ともいわれます。彼は、人間を試み、責め立て、堕落させる悪の霊です。目には見えませんが、四六時中、私たちに付きまとう存在です。

 しかし神は、悪魔よりも、無限に力ある方です。私たちはこの神に祈ることで、根本的に、悪の支配から解放されていることを覚えるのです。また具体的な試みや危険から守られるように祈ることで、神は、実際に、私たちの毎日を守ってくださいます。

 子どもの成長のこと、夫婦関係のこと、仕事や学校でたいへんな事など、すべて神に向かって、具体的に祈ることが大切です。それによって、平安を得ることができますし、神による愛の支配の中で、喜びをもって生活できるのです。

 

 

 

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聖書箇所 ・・・主の祈り

マタイ福音書

6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

 

主の祈り(文語

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みに会わせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


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 桶川福音自由教会 牧師 前野勇

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